2月例会 2月15日(土)14時~ 鎌倉文庫

伴野文亮氏 「印旛沼開鑿事業をめぐる金原明善の思想と行動」

本報告では、近代日本において様々なメディアを通して「偉人」として顕彰された金原明善(1832-1923)の思想と行動について、印旛沼開鑿事業への関与を事例として検討する。

金原明善をめぐっては、明善が生存中から「偉人」として顕彰されていたこともあって、戦前から多数の研究成果が積み重ねられてきた。しかしながら、それらの多くは、明善の名を一挙に高めた天竜川の治水やその後継事業として実施された天竜川上流部(瀬尻)の植林などに焦点を当てた、明善の「偉人」としての精神性を称揚したものがほとんどであった。換言すれば、明善の思想と行動を歴史学的視点から総合的に捉えた研究は、今もって存在していないのが現状といえる。このために、本報告で扱う印旛沼開鑿事業における明善の関与など、明善の思想を歴史的に検討するうえで重要な素材が今日まで分析されずにきたのであった。戦後、金原家の土蔵に所蔵されていた膨大な一次史料を素材として編まれ、初めて明善を「客観的・科学的」に分析したと自負する成果である『金原明善』(金原治山治水財団編集・刊行、1968年)においても、明善の印旛沼開鑿事業への取り組みについてはごく僅かにしか言及していないし、明善の印旛沼開鑿事業に対しての取り組みを歴史的に位置付けた成果も管見では把握していない。

かかる研究史的状況に鑑み、本報告では、1880年代=明治10年代後半から20年代前半の明善がいかなる思想的背景のもと印旛沼開鑿事業に取り組んでいたのか、その歴史化を試みる。

本報告は、以下3つの章から構成される。第1章では、印旛沼開鑿事業に関与し始めた1880年代における明善の動静について概観する。明治10年代後半は、天竜川の改修が内務省の直轄事業となり、明善が治河協力社を「解社退身」して東京に進出していく時期である。その時期にあって、明善がどの様な人的交流をもち、「実業家」としていかなる活動をしていたのか。第1章では、次章以降で印旛沼開鑿事業における明善の関与の具体像を明らかにするための前提として、とりわけ彼の人的ネットワークに着目しながら、当該期の明善の「姿」を概観する。第2章では、印旛沼開鑿事業と明善の関係性について検討する。具体的には、1884年(明治17)に作成された「参田会規則」や「内洋経緯費鐻集ノ大旨」、または織田完之が著した『印旛沼経緯記』(1893年刊)を史料として、明善の印旛沼開鑿事業における関与の具体的位相がうかがえる参田会の基礎的考察を行う。この考察をとおして、明善が印旛沼開鑿事業において具体的にいかなる行動をとっていたのか、その実態を明らかにする。そして第3章では、印旛沼開鑿事業に関わった明善の思想的背景について検討を加える。具体的には、「皇居御建築相成度並献納金之儀ニ付懇願書」などの史料や、教派神道「神道大成教」を率いていた平山省斎との関わりからうかがえる明善の天皇観ないし「国学」的思惟を明らかにするとともに、治水・水利事業の実施によって国家に「報効」せんとした明善の「国益」思想について検討を試みる。

以上の考察を経て、明善がなぜ「地元」浜松から遠く離れた印旛沼の開鑿事業に関与したのか、その思想的背景を明らかにするとともに、そこにおける明善の「個性」を明らかにする。本報告を通して、明善研究における新たな論点の提示を試みたい。

投稿者:

shizuokakenkindaishi

静岡県近代史研究会