3月例会 3月21日(土)卒論&修論発表会 13時30分~(開始時刻にご注意)会場 鎌倉文庫

昭和戦前期における落語の様相  清水覧磨(早大大学院)

本報告は、修士論文に向けた中間報告である。昭和戦前期の落語について、政府はどう利用しようとし、落語家がどう変化させたか、その落語はどう評価されたのか、ということについて、新聞や雑誌等に加え、放送関係の史料に注目して検討するものである。

アジア・太平洋戦争期において、娯楽は政府の統制下におかれ、また、戦争のために動員される対象であった。この点において、落語も例外ではなかった。1930年代後半から、国威発揚や貯蓄奨励といった、戦争という時勢を反映して新たに作られた、あるいは改作された落語が登場し、雑誌への掲載、落語集の刊行、ラジオ放送等が行われた。また、講談落語協会は1940年、遊廓を扱った噺を中心とした53種の落語を「自粛」することを発表し、警視庁に届け出た。

このように、戦時期において「ふさわしい」内容であることを求められた落語について、その存在した事実を指摘する研究はあるが、なぜ落語が利用されたのか、という点を問う研究は見あたらない。落語は日常生活に題材をとるものが多く、直ちに戦争と直結するものではない。同じ大衆芸能でも、その内容に「忠孝」「道徳」を含むことの多い講談や浪花節とは異なる点である。そのような落語を戦争と結びつけるにあたって、政府は落語という演芸に対して、どのような利用価値を見出し、どう変化させることによって、「ふさわしい」落語へと作り変えようと考えていたのか、ということを明らかにする。また、実際に新作あるいは改作の落語を作る落語家が、落語をどうとらえ、どう変化させようとしていたのか、という点についても、政府の意向との共通点及び差異の両方に目を向けて検討する。

一方で、落語は大衆演芸である以上、客である大衆に「受ける」ものでなくてはならない。演じられる落語の内容には、政府や落語家のみならず、大衆の意識や嗜好も反映されているはずである。六代目春風亭柳橋は日中戦争開始後、落語中で歌う歌をカフェの歌から軍歌に変えたが、その理由について客の「気持ち」が求めていたためと述べている(『高座五十年』)。戦時期においては、政府のみならず、聞き手である大衆も「ふさわしい」落語を望んだ、という面もあるのではないか。このことを明らかにするために、当時作られ、演じられていた落語がどのように評価されたのか、という点について検討を行う。

史料としては、「朝日新聞」「読売新聞」などの新聞、『文芸春秋』『日本評論』等の雑誌に掲載された論説を用いる。加えて、『キング』等の雑誌には落語そのものが掲載されていたため、そちらもあわせて利用する。また、『放送』や『ラヂオ年鑑』といった、日本放送協会の刊行物にも着目する。ラジオ放送において、娯楽は報道・教養と並ぶ重要な地位にあったが、戦前のラジオは政府の監督下にあった。したがって、放送されていた落語は、戦争よりも前から政府による統制下にあったということができる。落語の動員や「自粛」といった問題は、戦時期において顕著になるとはいえ、必ずしも戦時期に特有の問題であるとはいえない。放送と落語の関係についても視野にいれることによって、問題をより長期的な視野でとらえるものである。

植民地樺太の地方都市―北海道拓殖銀行資料を用いて    石子智康(早大大学院)

本報告は、修士論文に向けての中間報告である。                    本報告では、北海道拓殖銀行資料を中心に、樺太の経済、都市と銀行の関わりについて触れる。北海道拓殖銀行は、1899(明治32)年に成立した「北海道拓殖銀行法」をもとに成立した特殊銀行である。同行の設立目的は、北海道の拓殖事業に資金を供給することであった。翌年から営業を開始し、その後は道内各地に支店を展開していった。日露戦争後、日本が南樺太を領有し、同行も大泊に樺太支店を設置。その後、樺太庁が豊原へ移転するに伴い、同支店も豊原へ移転。しかしながら、同法が樺太に適用されていなかったため、樺太での営業は、預金と為替のみであり、本来の業務の一部しか行えなかった。1911(明治44)年、北海道拓殖銀行法が改正され、正式に営業区域が樺太まで拡大した。同行は、豊原、大泊の主要都市をはじめ、野田、本斗、真岡、知取、敷香、留多加、落合、泊居、恵須取11の支店を設置した。拓銀の他にも、樺太銀行が樺太内に本店と支店を設置していたが、1939(昭和14)年に合併。北海道内にあった銀行も合併し、北海道拓殖銀行は、北海道・樺太に本店を構えた唯一の銀行となった。戦後、1950(昭和25)年に同行は普通銀行となり、1997(平成9)年まで営業していた銀行である。

修士論文のテーマは、「植民地樺太の地方都市」であり、日本が樺太を領有していた時期(1905年~1945年)を対象とし、樺太の地方都市のあり方を明らかにしたいと考えている。これまでの樺太研究は、領有当初から中心であった大泊や豊原といった都市が研究対象となり、恵須取や敷香といった北部地域の研究はあまり見られない。卒業論文では、「樺太・恵須取の人口変動と都市形成」というテーマで、北部の都市である恵須取を扱った。恵須取は領有当初、一寒村にすぎなかったが、1925(大正14)年に樺太工業が進出したのを契機として、人口が増加した町である。終戦時には、人口が約4万人となり、樺太内でも有数の都市へと成長した。しかしながら、恵須取には他都市と結ばれた鉄道はなく、主な交通手段は航路であった。そのため、港湾の修築、北部横断鉄道の敷設を議会へ請願する動きがみられた。こうした交通網の整備を中心に、恵須取の都市形成について考察した。修士論文では、樺太における地方都市について考察し、それぞれの都市間の関係や中央(豊原)との関係性など、樺太の全体像を明らかにしたいと考えている。

銀行と都市との関わりをあらわす一例として、恵須取では、1934(昭和9)年に北海道拓殖銀行の支店が設置された。支店が設置されるまでの恵須取の金融機関は、信用組合と郵便局のみであり、時々支払いに支障をきたしており、特に王子製紙のような幾万円を扱う場合には、現金を船便で輸送していたと当時の新聞は報道している。この記事から、恵須取の経済が拡大し、支店を設置する必要性が生じたことが読み取れる。このように、銀行の支店は都市の経済状況を反映し、地方都市を考察していくうえで、重要であると考えられる。

近代におけるアイシャドウ使用状況の相違 ―1920年代のモガ化粧と、1930年代の眼化粧―  増渕美穂(立教大学)

本研究は、近代におけるアイシャドウや眼化粧に関して、先行研究と一次史料の読売新聞から分析することを目的としている。アイシャドウとは、眼の上の瞼に彩りを加え、眼を印象的にみせる化粧である。先行研究において、1920年代後半に流行となったモダンガール(モガ)はアイシャドウを使用したという記述がある一方で、日本での初の国産アイシャドウは1933年に資生堂から発売された。こうした「ずれ」を踏まえ、私は第一に「モガ」の化粧像をめぐる歴史的記述と、第二に「アイシャドウ」普及に至るまでの戦前の状況の二点を中心に論を構成した。

第一章は1920年代を、第二章は1930年代をテーマに設定し、先行研究と一次史料の読売新聞を用いた分析を行った。当時は婦人雑誌などがある中で一次史料に読売新聞を選んだ理由としては、オンラインデータベースがあり入手が容易なこと、また予想以上にアイシャドウの関連記事が豊富にあったためである。

分析結果は、以下である。まず第一章であるが、先行研究では、主に西洋の影響を受けて眼に対する価値観が変容したために「アイシャドウ」をはじめとする眼化粧が紹介され始めるが、使用は一部の裕福なモガに限られていたことが指摘されている。そこで1920年代の読売新聞にてモガの身なりをめぐる記述からその化粧像を分析したが、アイシャドウの記述はひとつも無かった。そのため近代に変化した美人観や二重瞼という意識、そして眼化粧の変容のようすを記事からみた。結果、美人観が西欧の影響を受けて「眼」に対する意識が強まり、西欧人のようなはっきりとした「眼」が目標となったことで、化粧や整形によってそうした眼の実現がはかられていたことが判明し、そこからやがて1930年代の「アイシャドウ」記事の増加へと繋がる様子がみえた。

第二章は、先行研究では、国産アイシャドウは1933年に発売されるが戦前では普及に至らず、戦争で日本の西洋化粧は一度分断されてしまった点が指摘されている。この点を念頭において、読売新聞の「アイシャドウ」関連記事における記述のされ方を分析した。計43点もの記事が見つかり、1930年から戦争開始後の1939年までの記事があった。新聞から実際の使用状況は分からないが、記事上に「アイシャドウ」の記述が多くあることから、主に美容家を中心に、普及に向けた様々な動きがあった様子がみえた。だが1939年の後にアイシャドウの記事が復活するのは1951年であることから、戦後しばらくはあまり使用されていなかったと考えられる。

以上、本論文の結論をまとめると、以下になる。読売新聞を一次史料として用いた本研究では、モガが化粧としてアイシャドウを使用したか否かは実証することが出来なかった。しかし、以下の二つの点が明らかになった。第一に、1920年代に主に欧米の影響によって、日本人の眼に対する価値観が変容した点、第二に、1930年代に入ると、美容家を中心に、読売新聞上でアイシャドウ普及に向けた様々な紹介が行われていた点である。つまり、変容した眼の価値観に合致する化粧道具として、アイシャドウが紹介されたのである。

従来の先行研究では、モガが「派手」な化粧をした部分に多く着目され、その化粧の中身は明確に検証されてこなかった。今後の修士論文ではそれらを丁寧に実証した上での研究を行っていく所存である。それに先立ち今回の発表では、アイシャドウ登場に繋がる重要な要素である、「眼の価値観」の変容を中心に取り上げる予定である。

 

 

 

投稿者:

shizuokakenkindaishi

静岡県近代史研究会